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3. With Family in Japan <日本人の祖父母たち>   

1990年8月23日の早朝に、我が家の長男は私たちのもとに生まれてきた。私の両親にとっては初孫。元来世話好きな母は、目に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。 私も初めての子育てで、とまどうことばかりだったし、両親と同じ市内に住んでいることもあり、お互いに頻繁に行ったり来たりしていた。当然夫は息子に英語で話しかける。両親はもちろん日本語で。 両親と夫のはざまで、おろおろとどっちつかずの対応をしていたのが、この私だった。英語がわからない両親に対する遠慮と、夫の志を知りながらも両親の手前日本語で話しかけ てしまうことに対する夫への申し訳ない気持ち。その二つの感情の間で、いつも私の気持ちは揺れ動いていた。

一方、夫の態度は、一貫してはっきりしていた。『この子がある程度の年齢に達するまでは、ぜぇ~ったいに彼の 前で英語以外の言葉は話さない』と。道端で近所の方に声をかけられても、英語で答える(ブラボー♪)か、もしくは息子にだけ話しかける。(夫の吊誉のため追記するが、このとき 相手の方に対する笑顔だけは忘れずにいたようです。息子と一緒でないときにはもちろん日本語で…。念のため。(笑))全ては、息子への贈り物のため、である。我が夫ながら、彼のこの信念の強さには脱帽~。

では、夫はどこでこの確固たる信念を抱くきっかけを得たのか?それは、やはり『人種のるつぼ』と 言われて久しい母国アメリカでの経験から来ているようだ。北カリフォルニア出身の彼の周りには、小さい頃から、近所にも移民が多かったことだろう。何世代もアメリカで生きてきた という家族もあれば、新たに移住してきた家族もいたことだろう。そうして、そのような家族の中には、ルーツとなる国の言葉を家族の間で大事に伝え続けていた人たちも多かったという。 もともと多くの国からの移民で成り立っている彼の母国、とりわけカリフォルニア州では、英語以外の言葉を話す人間がそれほど珍しくなく、周りもそれを当たり前のこととして受け入れる社会的な基盤があるのだろうし また、そうでなければ成り立っていかない国なのだろうとも思う。

そして夫自身、言語についての勉強をしてきたという経緯もある。『居住している国の言葉は、放っておいても身に つくものだ』彼は、よくそう言っていた。『日本語は放っておいてもしっかり覚えるよ。だからこそ日本語を使う時間に引けを取らない くらい英語を使う時間を持たなければ、英語を話す習慣はつかないよ。』

両親は、きっと戸惑っていたに違いない。いきなりアメリカ人の義理息子ができるというだけで大騒ぎだったのに、孫ができた途端に義理息子は英語一色になってしまい、何を話している のかもわからない。ひょっとしたら両親は私たちと一緒に居ても疎外感を感じたこともあったかもしれない。私は、できるだけ気を使い、その辺りのことについて、両親にはいろんな会話の中で時を重ねて少しずつ説明をしてきたつもりだ。何年も 何年も理解を重ねていくうちに、両親にとっても私たちにとっても、私たちが息子たちと人前でも英語で会話をすることがすっかり自然なことになってきている。夫の初志は、長男が生まれる前から これまでの15年間一度も曲がることなく、ただまっすぐに進み続けてきたのだという事実に改めて気づき、私のような三日坊主の優柔上断な人間は、その強い意志に驚くばかりである。

今、何よりも私がうれしいのは、両親が息子たちの成長をとても楽しみに、そして誇りに思ってくれていることだ。二つの言語を同時に伝えるのには、家族の理解が上可欠だ。私たちの考えを理解し、 サポートし続けてくれた両親に感謝したい。

Point : 子供と英語で会話を続けるためには家族の理解と協力が必要♪

次は… 4. At the Park & Mom's Friends <公園やお友達とのおつきあい>
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